冷たい唇



 小高良郎とはそれまで、話したことが一度もなかった。正直、顔もよく分からなかった。

 地味で暗くてつまんなそう。それがあたしからの印象。
 でも、こうやって見ると結構可愛い顔をしている。
 肌が白くてキレイ。てゆうか色素全体が薄い感じ。髪の毛もうっすらと茶色い。
 へー。目の下にほくろがあるんだ。

「越中さんはさ」
「わ、喋った」

 急に小高良郎が名前を呼ぶから、スケッチブックの中の小高良郎の髪の毛が一本だけロングになる。ああ、ごめんとぼんやりした言い方で目の前の小高良郎は謝った。それにしても、話し始める前兆がこんなにも無い人は初めて見た。
「何?急に」
「うん、越中さんはさ、髪染めてるの?」
「見ればわかるでしょ」
「あと、化粧もしてる」
 なんだこいつ。初めての会話でそんなこと聞くか? 普通。
「してるけど。みんなしてるし」
「うん。でも、越中さんはそういうのしないほうがいいと思うよ」

 どうして小高良郎にそんなことを言われなければならないのか意味が分からなくて、あたしは眉毛を八の字にして口をぽかんとあけていた。
 きっと次のセリフを言われたときのあたしはとてもブサイクな顔をしてたに違いない。

「しないほうがおれの好みだからさ」


 美術の時間に「友達の顔」というテーマで絵を描くことになった。

 「友達」といっても相手はくじ引きで、クラスの男女が一組ずつペアにさせられる。
 普段あまり話したことの無い人と仲良くなるため、とか先生は言っていたけど実際は仲間はずれを作らない口実だと思った。そこで私とペアになったのが、小高良郎。確かにくじ引きでもしなかったら絶対、あたしからはこいつに話しかけることは無かったと思う。
 改めてあたしはクラスでの小高良郎を観察して見たのだが、まずこいつには友達がいない。休み時間はいつも寝ていて、三時間目の授業中に少しだけ早弁をし、放課後は帰宅部らしく速攻帰宅。
 毎日毎日本当に毎日、美しいくらいに小高良郎の生活はそれの繰り返しの日々だった。

 しかし小高良郎は教室とは違い、美術の時間になるとよく喋った。
 しかも話す内容が毎回違う。だからと言って毎回面白いわけじゃないけど。むしろワケわからない時の方が多くて、あたしが明らかにつまらなそうな相づちを適当に打っているにも関わらず、延々とギリシャ神話を話されたこともあった。
 そして、小高良郎は絵がとても上手いのだ。小高良郎に描かれている越中実加は、自分でも驚くくらい越中実加そのものだった。ちょっぴり照れを含んだ微笑、柔らかそうな頬のライン。角張った眉毛。よく見ているな、と思った。そのたびあたしはあの言葉を思い出す。初めての会話で言われたあの一言を。


 美術の課題は、早い生徒でもう水彩の着色に入っていた。
「越中さんは遅いね」
「うるさいなー。丁寧に描いてやってるんだけど」
「おれは丁寧だし、もう今日から絵の具に入るよ」
 本当に小高良郎はずけずけと物を言う。嫌味を言っているつもりではなく、天然なのだ。とは言え結局嫌味になっているけど。 あたしは最近少しだけ美術の時間が楽しみになっていた。小高良郎の話はどうでもいいけれど、小高良郎が絵を描いているところは好きだったから。正確に言うと、小高良郎が描く越中実加が出来上がっていくところを見るのが好き、かな。

 宣言通り小高良郎はパレットに絵の具を出して、新しい色を作って塗っていく。
血色の良い薄いオレンジはきっと肌の色、紺と群青色の間みたいな色は制服の色かな。青みがかった黒は――
「あれ。ちょっとコレ!」
「うん、どうしたの?」
「あたし髪こんなに真っ黒じゃないでしょ?」
 紙の中のあたしの髪の毛はカラスの濡れた羽のような漆黒だった。
「だって、前も言ったじゃない」

 瞬間、あたしはあの言葉を思い出した。

 ああ、あれだ。
 なんとか言わなくちゃ。
 言い返さなくちゃ。
 言い返さなくちゃへんな間が出来ちゃうっていうかこの間がへんな間だ。

 とかなんとか思っていたら、急に目の前の小高良郎が椅子から転げ落ちた。


 急に倒れた小高良郎と、それを受け止めたあたしを中心に、いつの間にかクラスメイトが輪を作っていた。先生が驚いてこちらへ駆けつけた時、小高良郎は目を覚ました。
「……越中さん」
「ちょっと、大丈夫?」
 小高良郎は力なく笑って、心配そうにしている一同に「よくあることだから大丈夫」と言った。みんなはその一言で妙に安心したのか、ぱらぱらと席へ戻って行く。あたしは先生に保健室まで付き添うように頼まれた。
「立てる?」
「うん。ごめんね」
 女のあたしが男のこいつに肩を貸す。
「ありがとう」

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。教室の中の何人かはあたしより先にそのことを理解し、絶句した。
 小高良郎は当たり前のようにあたしの頬にキスをしたのだ。
 どうして小高良郎にそんなことをされなければならないのか意味が分からなくて、あたしは眉毛を八の字にして口をぽかんとあけていた。
 きっと次のセリフを言われたときのあたしはとてもブサイクな顔をしてたに違いない。

「好きになってしまいました」

 小高良郎の唇は冷たくて、カサカサしていた。