トラ看板の向こう側



 朝、教室へ向かうはずだった私はなぜか屋上へと向かっていた。
 「立入禁止」と書かれている黄色と黒のその看板は、私たちを屋上へ入らせまいと通せんぼしているトラみたいだなと思った。私を睨むそのトラを恐る恐る跨ぐ。背中に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。

 五ヶ月前、生まれて初めて引っ越しというものをした。生まれて初めて飛行機に乗ったのもその時だったということが、なんだかむなしくて自分でちょっと笑ってしまう。新しい教室のみんなは優しくて、すぐに私を受け入れてくれた。その温かさのために、最初の頃はなんでもない瞬間に急に泣きそうになるのを堪えるのに忙しかった。
 だけど未だに、私のきもちにぽっかりと空いた穴はなかなか塞がってくれなくて、いらいらした。色んなことに疲れてしまった。がんばって訛りを隠そうとする自分に。必要以上に明るく振る舞うお母さんに。全然ついていけない授業のスピードに。真夜中になっても明るいままのこの街に。いつまでたっても雪の降る気配すら感じないこの街に。


 トラの看板を跨いだら、長い階段が待ちかまえていた。私はロールプレイングゲームによくあるダンジョンを思い出す。
「どうして屋上なんだろう」
 心の中で思ったつもりが、独りそう呟いていた。
(どうして屋上なんだろう……。)
 私はそこへ行って何をするつもりなんだろう。ただ、朝起きて、学校へ向かって。急に教室へ入りたくなくなってしまったのだ。 誰もいないところが良かった。気がついたらトラの看板を跨いでいたのだ。

 階段の長さに息が弾んだ。白い色を持った吐息。その色を見て私は初めて今日の寒さに気がついた。

「あ」

 ようやく見えた「向こう側」への扉にはどうやらチェーンが何重にもかけられているようだった。
(せっかくここまできたのに)
 引き返すのもしゃくなので、とりあえず階段を登り切り、扉の前まで近づいてみる。扉の近くはうっすらと外のにおいがした。はなにキンとくる、北風のにおい。扉の取っ手に触れてみる。驚くくらい冷たい。まるで氷のようだ。ダメ元でまわしてみる。じゃりじゃりとチェーンが揺れる。
 がちゃがちゃ、じゃりじゃり。がちゃがちゃがちゃ、じゃりじゃりじゃり。がちゃがちゃがちゃがちゃ、じゃりじゃりじゃりじゃりっ。

「……やってしまった」

 さび付いた古いチェーンはあっけなく切れてしまった。やってしまった、と呟いたけれど、じつは後悔も反省もしていない。あとは、この冷たい扉を開くだけ。
 改めて、震える両手でノブをつかむ。

 ぎい、と音が鳴る。

 目の前が白く霞んで、光が差し込んでいくのを感じた。


 当たり前だけど、屋上には誰もいなくて、閑散とした印象だった。
 空気が冷たい。空が白い。きっともうすぐ雪が降る。

(ああ)
(やっとわかった)

 何もかもが寂しくて。何かから逃げ出したくて。
 屋上の理由を探していたけれど、そうじゃなかった。
 この街は嫌いじゃない。教室のみんなも嫌いじゃない。だけど、私は私の育った街と、その土地の人たちが大好きで、恋しくて、忘れられなかった。ほんとうは全部気づいていた。忘れられないでいることが一番苦しくて、私はその気持ちから逃げ出したかった。
 私は私の行き詰まった気持ちの扉を開けて、どこかへ行ってしまいたかった。

(じゃあここは、どこ?)
 扉を開けて辿り着いたこの場所は、一体どこなんだろう。確かめるようにフェンスに近づいた。
(グラウンド、バス停、新しい私の家。新しい私の街……)

「っくしゅ!」

 くしゃみが出た。気づくことが出来なかったけれど、そういえば今日はとても寒い。春夏秋冬、季節は休むことなく、いつだって同じように巡っている。
(グラウンド、バス停、新しい私の家、新しい私の街)
(そのずっと向こう側に海、津軽海峡、そして私の育った街)

 ふと、鼻の頭に冷たく、懐かしい感触がして、私は空を見上げた。しんしんと降ってくる、今年初めての雪。

「おんなじだ。おんなじだった」

 屋上で一人きり。
 この街に来てから初めて、私は泣いた。