Blue



「海、青いなー」

 少し大きな声であきれたように、ゆっちは海へ向かってつぶやいた。
 八月最後の日曜日、あたしたちは海沿いの道を歩いていた。目的地は近所のコンビニ。毎年恒例じいちゃん家主催の、バーベキューの買出しだ。あたしたち子供チーム(あたし的にはいとこチーム)の担当は、ジュースとお菓子と決まっている。

「今年は俺とれいなだけか。なんか淋しいな」
「去年なんてれいな一人だったんだよ? 受験生だったのにさー!」
「マジか、それは淋しいな、ごめんごめん」
 二回そう繰り返されると軽い感じがして、だったら謝られないほうが良かったなと悲しく思った。
「功兄は元気?」
「兄貴? 俺も最近会ってないからわかんないや」
 夏休みは朝から夜中までバイトしてんの。俺部活あるから朝早く出るし、兄貴帰ってくるころもう寝てるからさー、すれ違いの生活。大学生ってそんなんでいいのか? みたいな。そうぼやくゆっちの顔は、口ぶりとは逆に穏やかで、言っているほど兄のことを呆れてはいないということが伝わってきた。うん、きっと功兄は元気なんだな。
「なんか、良いなあ、兄弟! 楽しそう」
「すれ違いなのに?」
「それでも羨ましいよ、一人っ子的には」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなの」
 だからこうして年の近いゆっちや、いとこのみんなと集まっていると自分にもキョウダイが出来たようで嬉しくなる。友達に似ているけれど、やっぱりちょっと違う。年に数回しか会えなくて、最初はちょっと照れくさいけれど、気を遣わなくていい居心地の良い仲間。
「カオルちゃんとカスミ姉妹は元気かな」
「カスミ今中三だよね、忙しいんじゃない?」
「カオルちゃんは俺の三個上だから、今十九? ハタチだっけ。俺二人とも二年くらい会ってないよ」
 親戚の集まりは毎年必ず行われているけれど、参加するいとこの数は年々減っていた。部活、受験、バイト……。理由はそれぞれ違う。みんな大人になっていく途中で、大切なものも増えていくし、仕方のないことなのかもしれない。そう理解しようと思っていても、やっぱり淋しい気持ちになってしまう。だから、今日久々にゆっちに会えた時は本当に嬉しかった。ゆっちはいとこの中で一番年の近い一個上の男の子。去年はたしかバスケ部の試合と重なっていたんだっけ。
 一年ぶりに会ったゆっちはこんがりと日に焼けて、また少し背が伸びたみたいだ。


 じいちゃん家から歩いて二十分ほどのコンビニは相変わらず空いていて、店員も退屈そうな顔をしていた。
「れいな、オレンジで良い?」
「いいよ。ゆっちはコーラでしょ?」
「もちろん! 綾子おばちゃんにジンジャエールと、あとは適当でいっか。どうせみんなビール持ってきてるし」
 そうなのだ。大人たちは結局持参のアルコールばかり飲むので、毎年この「ジュース買出し係」というのはあんまり意味がないのであった。けれど、あたしはこの海沿いのコンビニまでの二十分が、久しぶりに会ういとことの気持ちの隙間を埋めるのにちょうど良い時間だと感じていた。
 あたしがレジでお釣りをもらう時、ゆっちの方からブーン、という音がした。
「何? 携帯?」
「あ、そうかな」
「メールじゃない? 見なくていいの?」
「んー、あとでいいよ」
 そっか、とあまり深く考えずにあたしは返した。


 帰りの荷物はゆっちが持った。
 大した量じゃないからあたしも半分持つと言ったのに、いいからいいからと言って、そのまま全部持って歩き出してしまった。あたしだけ、本当にただの散歩に来た人みたいになっていて、傍から見れば荷物を持たせているワガママな女に見えそうで、なんだかいやだな、と思った。あたしとゆっちは、そういうんじゃないのに。
 そういえばこの帰り道を手ぶらで歩くのは初めてだ。というか、そもそもこの道を二人で歩くことも初めてなんだ。

“ブーン”

 と、さっきと同じ音がゆっちのポケットから聞こえる。ゆっちは気づいていないのかそのまま少し歩いた。すると、また、ブーン、と鳴る。
「ねえ、ゆっち、メール」
「あー、うん」
 振り返らないままゆっちが答える。
「うん、じゃなくて。見なくて良いの? さっきから鳴ってるじゃん」
「へーきへーき」
 そしてまた歩き出す。両手に荷物を全部抱えたまま。

「何、彼女?」
 そう聞いてしまった瞬間、自分の声の低さに驚いた。確かに少しイライラしていたかもしれない。けれどこんなに低くて、早口になってしまうくらい、あたしはいつの間にか不機嫌になっていた。

「べつに、そういうんじゃないよ」
「じゃあ、なんで見ないの?」
「それは」
「やっぱり、そうなんだ、女なんだ」
「うるさいな、れいなには関係ないじゃん」
 関係ない……。その一言であたしは自分で自分が抑えられなくなるような何かが、胸にこみ上げてくるのを感じた。
「そうだよね、どうでもいいよね! れいななんて、ただのいとこだもん。ゆっちにとっては関係ないよね。そのメールの女のほうがゆっちには大事な存在なんだ!」

 そう叫んで、あたしは走った。じいちゃん家とは逆の方向へ。
 今自分が何を言ったのか、ゆっちがさっきどんな顔をしていたのかもわかんなくなって、そのわけのわからない頭に悲しい気持ちだけがいっぱいに拡がった。それを吹き飛ばそうと、あたしは更に走った。ひたすら、ひたすら。全速力で衝動的に。
つい何分か前まで楽しかったのに。
 去年一人きりだったぶん、ゆっちにあえて嬉しかったのに。

 そして、海岸まで出てきたところで、あたしは派手に転んだ。


 本当に痛いときは声も出ないんだな。岩場にぶつけた膝からは血がにじんでいた。膝から血が出るような転び方をするなんて、小学生の時以来だ。
「お前、何やってんだよ、大丈夫?」
 振り返るとすぐそこに、当たり前みたいな顔をしたゆっちがいた。
「ゆっち、足速くない!?」
「この状況の第一声がなんでそれだ、君」
「だって、れいな、全速力だったのに……」
「君とは鍛え方が違うのだよ」
   そうおどけたゆっちはポケットからティッシュを出してあたしの膝を拭いてくれた。
「れいなさっき、ひどいこと言った。ごめんなさい」
「いいよ、別に。俺のほうがひどいこと言った」

“ブーン”

 またゆっちのポケットが鳴る。
 ゆっちは、あーしつこい! とポケットに怒るけれど、やっぱりメールは読まない。

「ねえ、どうしてそんなに見ようとしないの?」
「じゃあ変わりにれいな見てよ」
 そう言われてあたしはポケットから取り出された携帯を受け取った。黒くてメタリックな、男の子っぽい携帯。ゆっちの携帯。恐る恐る開くと「受信メール四件」の表示があった。とりあえず一番新しいメールを開く。

『おーい、マジで先生キレてるぞ?
 休み明けお前だけランニング倍だって!
 ざまあみろ〜。
 by部員一同』

「って、え? どういうこと?」
「実は俺今日、生まれて初めて部活サボった」
「え! なんで?」
「なんでって……」
 お前さっき自分で言ってたじゃん。と、ため息までつくゆっち。さっき? あたし、何か言ったっけ?
「去年、一人だったんだろ」
「あ」
 ゆっちはそのこと知っていたんだ。でも、去年来なかったのは部活があったからだって言っていたのに。
「なんで、なんで今年はサボったの?」
「だってさ、一人とか、そんなの淋しすぎるじゃん。俺たちいとこなのに」
「それだけ?」
「何、悪い?」

 あたしは首を横にぶんぶん振って答えた。ゆっちの「生まれて初めて」がこんな形で使われて、それはそれだけ強く思われているってことで……。嬉しすぎて、言葉が出てこなかったのだ。
「だからさ、さっき、関係ないなんて言って悪かった」
 ゆっちはあたしの目をまっすぐ見てそう言った。
「……でも、いとこって言ってもみんな変わっていくんだよね。れいななんかより、みんな他に大事なことが増えてるみたいだし。」
 淋しいけれど、しょうがない。あたしは今まで思っていたことをゆっちにそう告げた。
「いつかはみんな変わっちゃうんだよ」
「変わらないよ」
「だって、みんな来なくなっちゃったもん」
「俺は来たよ」
「でも」
 と続けようとしたら、ゆっちの手のひらで口を塞がれた。

「あのな、いいか良く聞けよ。たとえ会える回数が少なくなって、何年も会えなくなっても、俺ら死ぬまで繋がっているんだぞ。死ぬまでいとこなんだからな。いいか、これってすごいことなんだよ、奇跡みたいなもんなんだ。絆なんだよ」

 わかったら返事! と言われて手を外されたので、あたしは焦ってはいっ! と答えた。

「じゃあ、帰ろ。みんな待ってる」
「そうだった!」

 いつの間にか急いで帰らないとバーベキューが始まってしまう時間になっていた。大人たちはもうビールの一つや二つ空けてしまっているかもしれない。

 あたしたちは走った。海沿いの道をじいちゃん家の方向に。同じくらいの速さで、一緒に走った。海からの風が気持ちよかった。八月最後の日曜日、きっともうすぐ夏が終わる。けれどそんなのお構いなしに、右側に見える海原はきらきら光って真っ青で、とてもきれいだった。